ベトナム戦争について
ベトナム戦争開戦のきっかけ
ベトナムはフランスが植民地としていました。
第二次世界大戦中、フランスがドイツに降伏したことで、日本が進駐していたこともありましたが、日本は敗戦したため、戦後はまたフランスがベトナムを統治していました。
しかし、ベトナムのホー・チ・ミン氏が共産党を率い、フランスとインドシナ戦争を起こし、フランスを負かし、1954年 ジュネーブ協定を締結しました。
ジュネーブ協定により、北緯17度線を軍事境界線としてホー・チ・ミン率いる北ベトナムとゴ・ディン・ジエム大統領率いる南ベトナムに分断され、2年後には統一しよう、という話になりました。
共産主義の拡散に恐れを感じたアメリカは、南ベトナムへの財政的・軍事的支援を開始しました。
アメリカの猛攻撃
1964年、米軍の駆逐艦が北ベトナム軍の攻撃を受けたと発表(トン・キン湾事件)、米軍は北ベトナムを猛攻撃しました(北爆)。しかし、攻撃を受けたというのはデマで事実ではありませんでした。
米軍は、ベトナム戦争の間に785万トンの爆弾を使用、病院や学校などの各施設も破壊しました。
また、隠れ家となるジャングルを絶滅させるため、「枯葉剤」を1961年から10年の間に約7,200万リットル散布しました。枯れ葉剤には催奇性や発がん性を持つ猛毒のダイオキシンが含まれており、その影響は第2世、3世でも外形的障害、遺伝疾患やがんなどの後遺障害に苦しんでいるといわれています。
戦争反対運動と終戦
米軍は南ベトナム政府を援助して、北ベトナムと戦うはずでしたが、南ベトナム政府のトップがとんでもないやつだったので、南の中でも反政府派(解放戦線)があり、米軍はてこずりました。
そんな中、この戦争では初めてマスコミが戦争の様子を報道し、ひどい有様を映した写真は世界中に戦争反対運動を巻き起こしました。
1973年にピュリツァー賞を受賞した1枚。
中央の少女は爆撃でひどいやけどを負っていましたが、カメラマンの必死の救護により助かり、その後立派に成長、財団をたちあげ、戦争で被害を受けた子供に手を差し伸べる活動をしています。
枯葉剤の影響により下半身がつながった結合双生児として産まれたベトちゃん・ドクちゃん。
日本赤十字の支援により分離手術が行われました。その後兄のベトさんは26歳で他界、弟のドクさんはホーチミンで日本料理店を営んでいるそうです。
1975年4月、首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府は無条件降伏を発表、南ベトナムは消滅しました。アメリカの力は、戦死者56,000人、戦費45兆円という高い代償を残して幕を下ろしました。
ASEAN誕生
ベトナム戦争中の1967年8月、東南アジア諸国の共産化を恐れたアメリカが支援し、タイの首都、バンコクでタイ・フィリピン・マレーシア・インドネシア・シンガポールの5カ国でASEAN(東南アジア諸国連合)を設立しました。
1984年にブルネイ、冷戦終結後にベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアが加盟して、現在の10カ国となりました。
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